東京大学大学院総合文化研究科
渡邊雄一郎
日本分子生物学会の記念すべき1978年12月の第一回年会(創立大会)の年会長を務められ、以後3期にわたり評議員を務められた岡田吉美先生(東京大学名誉教授)がこの8月17日、享年93歳でご逝去されました.ここに謹んで哀悼の意を表します.
第一回年会の時は私が岡田先生の研究室に配属できた前の段階で、岡田先生が当時の東大理学部生物化学科で担当されていた生体物質化学という授業の一受講者であった.秋学期開講当初から、12月に大きな学会を行わなければならないので休講にすると言われたことを、今でも覚えている.どれほど大事な学会なのだろう、非常に興味がそそられた.大手町の農協ビルで行われた会場に行ったわけではないが、プログラムでその内容を拝見した.授業で触れられた事項がいくつも講演タイトルに散りばめられ、それだけで興奮したことを記憶している.当時はまだ2会場の学会ではあったが、設立時ということで全て手探り苦労の連続であったものと、今想像する.1970年からの分子生物学シンポジウムに始まった機運の高まりで日本分子生物学会設立に至った経緯について、のちに研究室に配属されてから話を伺った.
岡田先生は大阪大学(旧制)理学部化学科入学後、タンパク質化学の権威であった赤堀四郎先生の研究室でタンパク質化学の研究を始められた.山村雄一先生の研究室の助手として1959年九州大学医学部医化学教室、1962年転任された大阪大学医学部附属癌研究施設で務められ免疫化学を専攻された.1961年「ツベルクリン蛋白質の化学的修飾」で理学博士を取られた.当時まだDNAやRNAの配列を決定する技術は生まれていない.翻訳されてできているタンパク質のN末端側からのアミノ酸配列をなんとか決定できたという時代である.侮るなかれ、それが威力を発揮する.
1964年、米国オレゴン大学分子生物学研究所に客員准教授として留学する機会を得られた.当研究所のStreisinger博士と共同でT4ファージのリゾチームタンパク質に注目して、フレームシフト変異の存在を生化学的に初めて証明された.当時Nirenberg博士によってコドン表中の64箇所に対応するアミノ酸の決定が進行していた最中である.Ochoa博士の発見した酵素で人工合成されたRNAを試験管内翻訳系に入れて、重合されたポリペプチドにどのアミノ酸が組み込まれるかで暗号が解かれつつあった.ただその手法ではアミノ酸を規定するコドン間に使われないヌクレオチドはない(ギャップはない)というCrickの予言に対する確証はまだ得られていなかった.T4ファージに注目され、大腸菌からなるローン(lawn)背景に希釈されたファージがプラーク(透明斑)を作るのを利用し、そのプラークのサイズの大きさからファージがコードするリゾチームタンパク質の機能に関する数多くの変異体がとられた.リゾチームの機能が落ちれば、プラークができない、あるいは小さいものしかできなくなる.これを最初の変異体とし、次にこの変異体から変化して、逆にプラークのサイズが大きくなる復帰変異体を努力してとられた.その中にはtrue revertantもあるが、中には2番目の変異が起こることで表現型が戻ったものが取れてくる.最初の変異が塩基の挿入によるもので、2段階目の復帰変異として、近くの別の箇所に塩基の欠失が起こったと考えられる変異体が取れたのである.1番目の挿入と2番目の欠失でORFのフレームが戻る、ただしその2箇所の間のアミノ酸配列は野生型と異なることが予想された.若かりし岡田先生は野生型とその二重変異体由来のリゾチームを大量に作らせた上で精製し、トリプシン分解したのち分離挙動の異なるペプチドを取り出した.あとは得意の技術でアミノ酸配列を決めた.結果が出た.あとは当時決まりつつあったコドン表の情報との突き合わせである.
Streisinger博士は、Nirenberg博士とリアルタイムで(当時は電話で)情報を共有していたそうだ.ある日、ついに決まったという知らせを受けて、岡田先生は2つの異なるアミノ酸配列が、できたてのコドン表をもとに、今で言うところのフレームシフト変異を想定して説明できるかを、緊張をしながら検討されたそうである.結果はほぼ矛盾なく説明できたのである.今であれば塩基配列を決定すればいい話であるが、当時その技術はない.コドンの実態がようやく見え始めた段階であり、直接配列を知ることができない.当時のパズルを解くような高揚感を、時を超えて岡田先生の話から我々も感じたものである.ただし矛盾する箇所が一つあった.Nirenberg博士が最初に発表したコドン表で帰属されていたアミノ酸が、岡田先生の手持ちデータと矛盾したのである.岡田先生がその矛盾する箇所があることをCold Spring Harbor Symposiumで発表したところ、Nirenberg博士はその学会中にその箇所を訂正したそうである.こうして現在のコドン表となった.
岡田先生は帰国後、当時農林省新設の植物ウイルス研究所(当時は千葉にあり、のちに筑波に移転.組織も農水省農業生物資源研究所となり、さらに現在では農研機構(国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構))の血清研究室長となり、タバコモザイクウイルス(TMV)の研究を始められた.1972年大学紛争直後で落ち着かない東京大学理学部生物化学科教授に就任.TMVは一種類の約2100個のコートタンパク質(CP)が、遺伝子である約6400塩基長のRNAの周りに会合して棒状の粒子を構成する.岡田先生は特定の溶液環境中でCPとゲノムRNAを混ぜると自発的にウイルス粒子が再構成されることに注目し、その素過程について解析をされた.当時、野村真康博士のグループなどリボソームの高次構造形成の研究にも注目が集まっていた時期である.
一本鎖ゲノムRNAの末端から会合が起こると思われる棒状のウイルス粒子の会合過程であったが、実は予想外のことが起こっていた.核酸の一方の末端にタンパク質が結合していく会合の様式であれば、RNAの端は一つしか見えないはずだが、実際には二つのRNAのヒゲがタンパク質会合体から出ているのが電子顕微鏡観察で見えたのである.こうしてゲノムRNAの内部配列にウイルス粒子会合の開始点(Oa: assembly origin)があることが受け入れられ、次にタンパク質がそこにどのように会合していくのかが問題となった.CPが一旦円盤状に会合した20SほどのディスクがRNAと最初に会合することがまず明らかとなったが、その後の粒子構造の伸長過程について論争が始まる.当時構造生命科学のメッカであったCambridgeの権威ある研究者はその後もディスクが会合して伸長する説を出していた.しかし自らの実験結果から岡田先生はCPモノマーが速い会合に関わると主張し、真っ向から対決することとなる.以後積み重ねられた実験結果をもとに岡田モデルが認められていく.その結論がJames Watson博士の教科書にも図と共に紹介された.Watson博士が来日時にその図を見せてくれたと喜んでおられた先生を懐かしく思い出す.欧米の研究者は権威あるCambridgeに楯突くということは恐れ多くてできないのが常だそうだが、俺はそんなものには左右されないと何度ともなく我々に語っておられたのが懐かしい.
1980年代になるとRNAの塩基配列決定、そしてDNAの塩基配列決定方法が報告され、核酸研究時代に突入する.そしていわゆる遺伝子組換え実験の方法が開発され、その重要性を感じ取った岡田先生は、TMV研究において、cDNAの合成、クローニング、塩基配列決定という技術導入を行なった.当初、逆転写酵素は市販されておらず、当時京大ウイルス研究所におられて逆転写酵素を自前で精製されていた石濱明先生の研究室に伺って、いただいてくるというミッションを受けたこともあった.岡田研究室に所属させていただいたおかげで、このような必要性からも初期の本学会を担った先生方と様々な交流を経験し、人間関係から分子生物学を学ばせていただいた.
RNA研究の難点はなんといっても、不安定、維持していても配列の一部が変化する可能性があることである.そこで長いRNAであっても一旦cDNAを合成し、転写プロモーター下流にその配列を連結し、試験管内でRNAポリメラーゼによる転写反応を行うことで感染性のあるウイルスゲノムRNAが人工合成できる系を確立した.さらに変異導入技術を当てはめることで天然には存在しない変異ウイルスゲノムを合成することが可能となった.こうしてRNA遺伝子研究、ウイルスゲノムの逆遺伝学的な研究の先駆けとして数多くの研究成果を挙げられた.ウイルスゲノム上にコードされたタンパク質の機能の同定、ゲノムRNA上のさまざまな配列の機能の証明などウイルスゲノムに関する情報を発表された.岡田先生は東大定年退官後には帝京大学理工学部に10年務められた.1998年8月Edinburghで国際シンポジウム”Tobacco mosaic virus: Pioneering research for a century”に岡田先生は招聘され講演をなさった.2004年には研究成果をまとめつつ、人類が最初に発見したウイルスであるTMVについてまとめた一冊の本、「タバコモザイクウイルス研究の100年」(東京大学出版会)を上梓された.2011年には雑誌現代化学(東京化学同人)に、著名な生命学者が研究されていた当時を振り返り、若い世代の研究者の卵たちにメッセージを発信続けられた.
Streisinger博士はゼブラフィッシュをモデル動物として研究を始めた先駆者として知られているが、不遇にも若くして亡くなった.私が学生の頃、岡田先生はStreisinger博士の葬儀に行けないことを残念がっておられた.2010年 Nirenberg博士が亡くなった際には、その掲載記事を見たいのでコピーを送って欲しいと岡田先生から依頼を受けた.やはり研究人生の中で一緒に苦労した研究者、互いに切磋琢磨した研究者のことは常に意識されていたのであろう.先生には長年の労から解放されてまずは安らかに過ごされ、天国で昔の研究者と再会して、昔話に花を咲かせてほしいと思う.ご冥福をお祈りいたします.
(2022年9月)