田中啓二さんとの個人的な思い出

永田和宏
JT生命誌研究館

 田中啓二さんが亡くなってもう半年になる。未だに信じられない思いである。何となく電話でもかかってきそうな気さえする。

 田中啓二について追悼の文を書けと言う。彼とは親しく付きあってきたが、いざ書こうとして思い出すのは、なぜか飲んでいる場面ばかりである。たぶん、学会のHPでの追悼文なのだから、彼の業績などをしっかり会員の方々にお伝えするのがこういう場合の常道なのだろうが、あまり型式ばった文章を書きたくないというのが本音である。業績をあげ、いかに世界的に突出したサイエンティストであったかなどを書き始めると、私のなかの田中啓二が遠ざかっていくようで、それも辛い。

 日本細胞生物学会の会報にも書いたことだが、田中啓二の仕事、その足跡が実に的確にまとまっているものとして、田中さん自身が語った文章を紹介しておきたい。私が館長として勤めているJT生命誌研究館のHPには、サイエンティストライブラリーという欄がある。ここにはわが国が世界に誇る生命系の研究者100名余の語り降ろしの自伝が納められている。亡くなった方も多く、今や貴重な記録集ともなっているが、そこに田中啓二の「プロテアソームの発見から生命科学の中枢へ」という記事が収録されている。

 そこには彼の生い立ちから始まって、留学体験も含め、どのような思いで研究を進めていったか、師を含め、誰とどのように出会って研究が進展していったかなどが、実にいきいきと彼自身の言葉で語られている。これにまさる紹介文はないはずなので、ぜひそちらをお読みいただくことにして、私は田中啓二との個人的な思い出を語ることをお許しいただきたい。

 私には、田中啓二を含めて何となく「七人の侍」と呼ばれている仲間がいる。七人は、田中啓二のほかに、大隅良典(東京工業大学、現東京科学大学)、三原勝芳(九州大学)、藤木幸夫(九州大学)、伊藤維昭(京都大学、後に京都産業大学)、吉田賢右(東京工業大学、後に京都産業大学)の五人と私である。私は2010年、定年前に京都大学を辞めて、京都産業大学で総合生命科学部という学部を作るということになり、学部長として赴任した。翌年、その新学部創設記念のシンポジウムに、この六人の方々をお呼びしたのであった。

 研究分野が近く、それぞれはもともと親しい友人たちであったが、その夜、京都の白川院で飲み明かすことになった。大きな部屋で布団を部屋の隅に押しやり、車座になって朝方まで飲んだだろうか。その時、誰言うともなく、これは七人の侍だよな、ということになったのだった。この七人でドサまわりでもやるかなどと盛り上がったところで、実際、翌年に藤木さんが九州大学で「七人の侍シンポジウム」なるものを企画、開催したのである。

 さすがに皆の話はおもしろく、かつ深く、おおいに好評だったと思うが、我々の〈隠された真の目的〉は、講演会のあとの飲み会にあるのであって、さっそく郊外の旅館へ直行である。その時の写真が下記のものだが、部屋の入口に「七人の侍様御席」とあるのが愛嬌である。さあこれから飲むぞとみんな楽しそうな顔をしている。なぜかいちばん真面目な伊藤さんが、真面目な顔で、もう日本酒の瓶を二本もさげているのが可笑しい。

田中啓二先生追悼1

 これを皮切りに、そのあともこのメンバーでいろいろなところへ出かけた。田中さんの記録からの借用だが、秋田大学「理数学生育成支援事業」、日本細胞生物学会(奈良大会)、京都産業大学「タンパク質動態研究所開設記念シンポジウム」、九州大学「ノーベル賞受賞記念 七人の侍講演会」など、毎年のようにどこかで集まって講演をすることになった。

 秋田大学から呼ばれたときは、講演会が終わったその足で、田沢湖近くの乳頭温泉郷に直行した。乳頭温泉郷のなかでももっとも奥、山の上のほうにある黒湯温泉である。水道も引かれていない源泉かけ流しの鄙びた温泉で、テレビも売店もないというところ。そこにホストの秋田大学伊藤英晃さんを含め、8人が泊りがけで飲むことになった。

 60代、70代の男ばかりが浴衣で、小さな机を囲めば、すぐにボルテージは最高潮。しゃべるは、しゃべるは。たちまちに時間は過ぎて行った。だれが中心になるというのでもないが、こんな時も、どこか田中啓二の存在感が際立っていて、彼がいるだけで座に安心感が漂ってくるような気がしたものだ。黒湯温泉の一夜の写真でも、田中啓二が手をまっすぐ私の前に突き出して、なにかしゃべっているが、机の上の6本ほどの酒瓶とともに、いつもの風景ではある。

 夜中の2時ごろだっただろうか。ふと気づくと三原さんが居ない。小便にと言って席を立ったはずだが、もう一時間くらいになるのではないだろうか。どうしたんだろう。きっとどこかでぶっ倒れているぜ、ということになり、探しに行くか、と言っていたところに、三原さんがぜいぜい言いながら、倒れ込むように部屋に入ってきた。途中で転んだのだという。手も痛いし、胸も痛い。これは救急車を呼ばなければならないかとも思ったが、さて救急車がここまで来るには優に一時間はかかるだろう。困った。

 三原さんが大丈夫、大丈夫というので、その晩は4時くらいまで飲んで眠ったが、実は三原さんは、転んで指を骨折し、おまけに胸骨も折れていたのだという。次の日、そのまま九州へ帰って行ったので何とも思っていなかったのだが、結構重傷だったらしい。それ以降、七人の侍の呑み会には、(大隅さんのノーベル賞を祝う会にだけは出席したが)、三原さんは奥さまの許可が出なかったはずである。

 

 七人の侍講演会を含めて、特定領域の班会議やAMEDのサイトビジットなど、田中さんとはいろんなところに一緒に行く機会が多かった。なかで、大隅さんがノーベル賞を受賞して、その授賞式に私と田中さんと吉田賢右さんを招待してくれたのは、もっとも鮮明な記憶として残っている。

 私は大隅夫妻や、吉森保、水島昇さんたちと同じ飛行機でノーベル週間の最初から参加することになった。ホテルはノーベル賞の受賞者たちが泊ることで有名な、グランドホテル。ストックホルムの街を歩いたり、大隅さんが招かれる小さなパーティに参加したりと、規則正しい生活を送っていたのである。

 田中さんと吉田さんは、JST/CRESTの仕事の関係で、二日ほど遅れてやってきた。彼らがストックホルムに着き、さっそく電話がかかってきたが、それからすっかり生活が乱れてしまった。まず田中さんが、永田さん、せっかくだから飲もう、と言いだしたのが昼飯のとき。彼らの到着初日目の昼から飲みはじめることに。多くの新聞社から記者たちが派遣されており、彼らを交えて夜も飲むことになった。さすがに大隅夫妻に声はかけなかったが、我々も初めてのデューティフリーの海外旅行、もちろん大隅さんの受賞だから気分が高まらないわけがないが、ただ楽しめばいいだけの海外というのはこんなに愉しいものかを実感した。

 印象に強く残るエピソードの一つは、貸衣装屋に燕尾服の衣装合わせに行ったときのこと。みんなタキシードは着たことがあっても燕尾服は初めてである。ストックホルムの老舗の貸衣装屋へ、田中、吉田、私の三人で歩いて行った。大隅さんの受賞と言うことで、日本からは各新聞社の記者が来ているのだが、その日は他に予定がなかったらしく、朝日、読売、毎日をはじめ、各社の記者が五人ほど、ぞろぞろと我々についてくることになった。

 件の貸衣装屋の親父おやじも、長くノーベル賞の授賞式を見てきたが、受賞者の衣装合わせでなく、その同行者の衣装合わせにメディアが同行したのは初めてだと驚いていた。とにかく燕尾服なるものを着せてもらい、衣装室から出てくると、各社の記者たちがいっせいに、そこに並んでくださいと言う。写真を撮るというのだ。いちおう上は燕尾服なのだが、私は登山靴に近いウオーキングシューズ。下は撮らないようにと念を押して、写真に納まったのだが、時事通信に、「えんび服を試着した永田教授ら」とキャプション付きで出た写真は、見事に足まで写っているではないか。なんとも頓馬な写真とは相なったが、まあこれもご愛敬。

田中啓二先生追悼2
(田中啓二提供)

 私は2020年に京都産業大学を退職することになり、コロナ禍で来場者を制限しなければならなかったのだが、12月になって最終講義を行った。実は、この写真は、その時に、田中啓二が「友人としての思い出」という講演で見せてくれて、初めて知ったものであった。たくさんの写真を用意し、楽しく、しかも真に温かい友人としてのスピーチとして、私が生涯、忘れ得ないものであった。

 ノーベル賞の晩餐会もいい思い出である。大隅さんはもちろん主賓として、中央の国王らの席に近いところであったが、私たち招待者はそれとは離れた一画。大きな会場に2000人近い人たちが集う華やかな会である。私たちのテーブルは田中、吉田、私のほかに、中国から大隅さんが招待したHong教授、そして文科省の前川喜平事務次官が私の横に座っていた。文科大臣がもし都合が悪くなった時の代理として来ているとのことであった。前川さんは帰国後、文科省と決別して大きな話題の人となったのだが、もちろんこの当時はまったく普通の官僚としての出席であった。

 晩餐会はとにかく長い。田中さんの記録によると(彼は、豪快でおおざっぱなように見えているが、実に細かく記録をつけている人でもあった)、夜の7時から11時までたっぷり4時間あったらしい。そこで出された料理に驚く。たったの三皿。オードブルとメインにデザート、それだけで4時間なのである。まあワインをどんどん飲む以外にはない。その4時間の終了に近い頃に受賞者のスピーチがあるのだが、愉快なことに、その頃には退屈とワインの酔いで、田中さんも吉田さんもすっかり居眠っていたのである。彼らが、大隅さんのスピーチを聞いたのかどうか、私には記憶がない!

田中啓二先生追悼3

 まあ、一生に一度の楽しい会であった。田中啓二は、きっとノーベル賞をとるはずと私は思っていたし、その時はもう一度呼んでくれとも言っていたのだが、彼がそれも果たさぬままに死んでしまったことが哀しい。

 晩餐会のあとが、また一騒動であった。ホテルに帰って燕尾服を脱ごうとしたときの話。すでに別のところにも書いたのだが、私と田中啓二とが折に触れて笑い合っていたエピソードなので、もう一度採録しておきたい。

 「晩餐会から帰って、部屋で燕尾服を脱ぐ段になって、なんということか、ワイシャツの襟の一番上のボタンがどうしても取れない。確かネジになっていたからと、タイトな襟のすき間に指を入れ、裏と表からボタンを掴んで必死にまわそうとするのだが、滑るばかりでいくらやっても回ってくれない。十分ほども格闘していただろうか。首も指も痛くて、ほとんどパニックである。

 しかもそんな時に限って誰かがドアをノックする。仕方なくドアを開けると、なんとそこに居たのは、田中啓二なのであった。「永田さん、助けてくれえ」と彼もワイシャツが脱げないで、駈け込んできたのだった。もう五分遅ければ、私が彼の部屋に駈け込んでいただろう。

 襟のボタンは、ネジではなくてそのまま穴から引っこ抜けばいいだけのことだったらしい。回らないはずだ。お互いのボタンをはずしながら、あまりのことに二人で大笑いしてしまった。なるほど私たちはたしかに庶民なのであった。今回のノーベル賞授賞式でこれがいちばん記憶に残るエピソードだったなどと言ったら、きっと大隅さんは怒ることだろう。」(文藝春秋2017年2月号)

 先に、彼の業績や足跡はJT生命誌研究館のサイエンティストライブラリーに譲ると書いたが、それに記されていないのは、彼の行政的手腕、研究所をまとめていく、組織してゆくという能力なのかもしれない。ライブラリーの語りは、それ以前に記録されたものだからである。

 田中啓二は、東京都臨床医学研究所の所長代行を務めたあと、東京都総合医学研究所を起ち上げ、その所長となった。これは田中さんでなければできなかった難事業ではなかったかと私は思っている。東京都の3つの研究所、それぞれが長い歴史を持つ臨床医学総合研究所と精神医学総合研究所、それに神経科学総合研究所の3つをまとめるのは並大抵の力で成し遂げられることではなく、その苦労について田中さんから直接聞くことはほとんどなかったが、たいへんなことであっただろうと思っている。

 2011年から所長となった田中さんは、2018年からは理事長に専念することになった。ある時、神楽坂で大隅良典さんと田中さんと三人で飲んでいた時、田中さんが今度理事長になることになったので、少し時間ができるから、旧東海道を歩こうと思っていると言ったことがあった。

 そんな時、乗りのいいのが私で、「それじゃあ、あなたは日本橋から歩きなよ、俺は三条京阪から歩くからさ」と言ったのが、我々二人の東海道歩きのきっかけとなったのだった。それについては、すでに細胞生物学会の会報に書いているのでここでは詳しく書かないが、二人が週末の空き時間をやりくりして、それぞれ勝手に歩いていたのだが、必ずその都度、進捗状況を報告していた。それに使っていたのがLINE。笑ったのは田中啓二のLINE名が「じいじ」であったこと。孫との通信に使っていて、孫が作ってくれたからだと言っていたが、田中さんの別の面を見ているようでおもしろかった。

 「じいじ」のLINEは、いつもやたら絵が多く出てきて、これも田中啓二の別側面。2019年2月16日には「小田原に達せず、力つきる!西行の鴫立庵と旧吉田茂邸、良かったです!」の後に写真が送られ、「田中さん、ごめん気が付かなかった。石山、瀬田、草津、手原、石部とちょうど5時間歩き通し。もうダメだ。とにかく喫茶店もレストランもまったくなかった。死ぬかと思った」という私の返信がある。それに「さすがです!」という絵文字が送られてくるといった塩梅。

 3月1日には、「明日、晴れであれば、箱根に挑戦する予定です!」とあり、2日「ヘトヘトです!死にそうです」(12時)、「箱根峠の甘み茶屋です、まだ箱根まで、数㎞あります!」(13時)。「今、三島に到着しました! 死んでいます!?」(18時)。「ビールを飲んでいます! もう動けません! もう動けません!?」(18 時30分)。「芦ノ湖は、良かったです。」(19時)と言った具合に、リアルタイムで状況が伝えられるのであった。

 こんな風にして、それぞれが旧東海道を歩き、ちょうど真ん中の袋井の宿では、同じ日に到着するよう打ち合わせた。その日は、七人の侍たちも、ご苦労なことに、東京、京都、福岡などから駆けつけ、メンバーではない吉森保夫妻まで加わって、袋井で大宴会となった次第。私が日本橋に辿り着き、田中啓二が三条大橋に達したときには、わが家の庭で達成記念の酒盛りをし、この時もやはり七人の侍たちが集まってくれた。

 田中さんをはじめ、それぞれがいい研究をしていて、それぞれが互いに敬意と絶対の信頼感を持ち、だからこそ何を言っても許される、何を言っても大丈夫と思える仲間を持てるというのは稀有なことであるに違いない。サイエンスをやってきて良かったと思える、最大の喜びの一つであろうと、この歳になって実感している。田中啓二はいつもその中心に居てくれた。その田中啓二がなぜ、まっさきに逝ってしまったのだ。

 旧東海道を踏破したとき、彼と次に約束したのは、次は中山道だろうということだった。彼の方が先に歩きはじめ、八ヶ岳付近まで歩いていたはずである。彼の亡き今、私は彼との約束を果たすべく、中山道を歩いている。ようやく塩尻まで到達し、なんとか今年中に日本橋まで歩き通して、どうだ!と、言ってやりたい気分なのである。